今回はモーリス・ベジャールの『くるみ割り人形』を観て、「面白い舞台ってこういうことか!」と学んだことを書きたいと思います。
時間があまりないなので、書きなぐりたいと思います。語弊もあるとは思いますが、ご容赦ください。
私自身、最近舞台を見ることから遠ざかってました。仕事でコンサートやら演劇やらに携わっていると、人間にもキャパはあるもので、飽きてきます。
なので、最近はもっぱらほとんどの休日を趣味であるフリースキーの練習に費やしていました。
フリースキー主体の休日スケジュールは、
8時起床、朝起きたらまずサイト記事を書き始める。
10時までに一つは記事をかならず一つは書き終える。投稿する。
11時にフリースキーの練習施設「S-air」(ウォーター・ジャンプ)に行く。
2セッションくらいやるとちょうど5時間。
だいたい5時くらいまでやって、疲れてきた頃にジムへ行く。
2時間以上やって夜9時くらいに帰ってくる。
ご飯を食べて、11時くらいから夜中の2時までサイト記事を更新したり、修正したりする。
こんな1日を過ごしておりました。
しかし!つい先日の出来事です。
ここ3年くらいほとんど怪我をしたことなかったのですが(靭帯の軽い損傷くらい)
ウォーター・ジャンプで回転しながら着水したときに、回転に左手が追いつかず、残ったままで水に腕を取られ、脱臼しました。
ありえない方向に腕が捻れ、水中でもがきながら陸へ到着し、右手で肩を触ってみたら、左肩のふくらみがあるべきところが凹んでました。
「やっちまったぁ」
まさにこんな心情です。
そして、タクシーをスタッフさんに読んでいただき近くの病院へ。
腕を入れる時が近づくあの心境、「もうこのままでもいい」とさえ思ってしまいました。
そして、診察室に通され、レントゲンを撮り、見たら腕が5cmくらい下方に下がってました。
腕をはめるときのお医者さんの「入れますよ」という真顔。
看護師に「二人くらい呼んで!両方から押さえて!」
確実に痛くて飛び跳ねるということだと理解しました。
「がっ!」って入れるのかと思うじゃないですか。
ゆっくり腕を回すんです。自分の力では痛くて腰から上に上がらない腕を、お医者さんが徐々に上に上げて行きます。
「大事なことはゆっくり息を吸って、落ち着くこと」
どこかで聞いたセリフだな。ああ出産か!と理解し、「すーはー、すーはー」と息へ全神経を傾けました。
幸いなことに、お医者さんが上手で(はじめてなので憶測だが)、あっというまに付け終わりました。
そんな日々を過ごしております。
全治3ヶ月。もちろん今はリハビリもできないのでウォーター・ジャンプどころかトランポリンもジムにも行けません。
なので、いつもならワークアウトしている時間に久々にDVDでも見てみようと思い、
手に取ったのがモーリス・ベジャールの「くるみ割り人形」
日本だと東京バレエ団が東京文化会館で何年か1度にやってます。
前にベジャールバレエ団が日本に来てやっていたので、知っているかたもいると思います。
解説
ベジャールの『くるみ割り人形』は、チャイコフスキーの音楽を用いながらも展開される世界は従来のものとは全く違っている。使われる曲もムーテによって編曲され、アコーディオンのオリジナル曲などが加えられている。ベジャール自身の言葉を借りれば、彼はこの作品で「自分自身の子供時代や、青春時代、仕事への目覚め、振付家の仕事がどんなものであるかを語ろうとした」のである。
主人公はベジャールの少年時代の分身であるビム。彼に大きな影響を与えた母親や好きだった芝居ごっこのこと、その際演じたメフィストのこと、バレエのレッスン、ボーイスカウトの体験など、さまざまな要素が散りばめられている自伝的作品である。なかでも母親への強い思慕が、舞台上に現れる巨大なヴィーナス像によって象徴され、ビムと母はその前で感動的なパ・ド・ドゥを踊る。また、"M..."と名づけられた、ビムの父であり、メフィストであり、マリウス・プティパでもある人物がビムを導き、第2幕の最後には彼のアナウンスによって古典と同じ振付のグラン・パ・ド・ドゥが披露されることから、観客はこの作品がクラシック・バレエへのオマージュでもあることを知るのである。 東京バレエ団HPより
久々に見たのですが、バレエって、舞台ってこんなに面白かったっけ。と感動してしまいました。
舞台ってアイディア次第でこんなに面白い舞台になるんだと。
で、どうして面白いかって考えますよね。
考えるとふと気づくのです。
これは多分、久々に舞台を見たからだと思います。
改めて整理してみる気持ちのゆとりが生まれるのです。
そこで、「だから面白いんだ!」と気づいたところを絞り出したいと思います。
「くるみ割り人形」を雑巾のように絞ったら出てくるものってなんでしょうか。
思いついた項目を挙げると、
一流
コラボ
群舞
この三つです。
ではまず一流から説明したいと思います。
舞台における一流とは
一流ですが、
ダンサーさんが一流です。舞台にいる人ってやっぱり綺麗、またはかっこよくあってほしいですよね。
だって、1、2時間も綺麗な人を見るのと、自分と同じくらいのレベルの人を見るのではだいぶ退屈さにおいて違います。
私は男なので綺麗な人で話しているのですが、身内の舞台じゃないのに綺麗な人が出ない舞台って、本当に見る価値はあまりないです。
で、もし綺麗な人じゃなければ、本当にダンスが上手いレベルの人が見たいです。ダンスだけでなく、日本舞踊などでも良いです。
「日本舞踊を見た!」「バレエを見た!」という満足は3分あれば十分です。違うんです、
1時間観客を感動に誘い続けるためには一流の「バレエダンサー」であり一流の「歌舞伎役者」であり、一流の「アスリート」じゃないといけないんです。
この感覚が大人になっていくにつてれ、社会の中に入っていくにつれて高まります。
「お金を払っているのだから、その対価以上のものはもらうよ」という満足感がなければ現実へと引き戻されてしまいます。
小劇場が嫌いなのは、お客さんは呼びたいけど、自分たちは3流というパターンです。
お客さんは呼びたいけど自分たちは3流ということは、語弊を恐れすいうのであればジョークであり、一種の詐欺です。
こういうこと本当はあまり言いたくないのですが...
だから、私が好きな舞台が「CHICAGO」なのには大きな理由があります。
ウエスト・エンドで「CHICAGO」を見たときに感じたのがあの劇場の圧迫感です。
観客の人数が少なく感じるので、少ない人数に対して一流の人たちが一流の世界を見せてくれているというとてつもない満足感です。
おそらく、かつての日本でもこの世界観は存在して、寺山修司や唐十郎さんのような小さな空間の舞台でも同じような感覚だったのだと思います。狭い空間に広い世界がさらに広がってゆく。狭い劇場が世界全体のように思える。世界全体を見渡せる地平に観客を誘ってくれるのです。
これですね、「狭い空間なのに、世界全体を見渡せる広い空間に行ける舞台」これが大事なのだと私は思います。
すみません、とりあえず、このへんで一流については終わりにします。