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舞台「1984」@新国 本当の感想と評価 井上芳雄主演
2018年4月12日(木)に日本初演を迎えた「1984」。
ジョージ・オーウェルが1948年に書いた小説「1984」を舞台化した演劇作品。
ロンドン、ブロードウェイと上演されてきました。
初日を観劇したので、感想と評価をご紹介します。
※ラストシーンを含んだネタバレもあります。
井上芳雄はもっとできる。
私の知る井上芳雄は、拷問されるシーンを嫌に思うのではなく、むしろ楽しんで演じるような俳優です。
※終盤に拷問シーンがあります。
良い意味で言えば、そのくらいエンターテイナーであり、俳優としてのキャパシティがあり、ストイックな性格なのです。
「これ以上求めるのは酷!」
と思う人もいるかもしれませんが、井上芳雄はこんなもんじゃありません。
小説のウィンストンは徹底的に拷問され、改心します。
原作並みに、もっと過激な演出で井上芳雄の魅力を引き出してほしかった...
ワイングラスが割れないのがだめだった。
主人公ウィンストンへの拷問シーンは、小説「1984」で過剰なまでに描かれます。
ウィンストンを騙し、実は党側の人間だったオブライエンが拷問中に投げたワイングラス。
投げるものの割れません。
落とした時の音的には、プラスチック製を使用したのかなと思いました。
結果、拷問に茶番劇さが溢れ出し、小説のようなリアル感が失われてしまいました。
血もケチャップに見えてきます。
大杉漣の代役神農直隆が良かった。
神農直隆の演じたオブライエン。言葉回しにとても惹かれました。
小説のイメージにも近く、ウィンストンの考えを徹底的に論破するオブライエン像を非常に上手に演じていました。
想像ほど過激では全くなかった。
フラッシュライト、ストロボ、轟音、銃声、タバコの煙、そして非常に写実的な暴力と拷問の描写
観る前に期待していた演出が一切ないのに驚いた。
ブロードウェイ版「1984」の公式サイトにはこう書かれているようです。
「フラッシュライト、ストロボ、轟音、銃声、タバコの煙、そして非常に写実的な暴力と拷問の描写があります」と書かれ、13歳以下の入場は不可とされている。
そして、作品を観た観客は気絶、嘔吐、さらに熱狂した観客が捕まったそうです。
劇場の外には警官が待機していたとも書かれています。
「どんな演出なんだろう!」
と、非常に期待していたのですが。
フラッシュライト、ストロボ、轟音、銃声、タバコの煙、そして非常に写実的な暴力と拷問の描写。
気絶や嘔吐するほどのものが一切ありませんでした。
「われわれはとても引き返せないほど徹底的に君を叩き潰すことになる。これから君は、たとえ千年生きたところで元に戻ることが不可能な経験をするだろう。普通の人間としての感情を二度と持てなくなるだろう。君の心のなかのすべてが死んでしまう。…われわれはすべてを絞り出して君を空っぽにする。それからわれわれ自身を空っぽになった君にたっぷり注ぎこむのだ。」
オブライエンの言葉を小説から引用しました。
ウィンストンの頭の中を空っぽに、そして観客を興奮させるにはリアルさと過剰さが足りなかった…
小説を読まないと分かりづらい、読んでいるとあっさり
私は本を読んでいたので、劇中シーンの背景(どうしてこうなるの?)がよく分かりました。
内容は小説のハイライトのようで、新しい発見・解釈があまり見つかりませんでした。
楽しみは、井上芳雄の演技。そして小説のシーンを可視化していて、生で見られるという楽しみくらい。あと、上演脚本。
※ただ、もっと井上芳雄の魅力や一線超えた演技が見たかったぁ
頻繁に映像が使用されます。
でも、唯一の楽しみが小説の可視化を楽しむだったので、映像になった途端に楽しみがなくなってしまうという…
あの映像が演出的にも意味を持つのですが(実は私たち観客がウィンストンとジュリアを監視していた)、なんとなくそうなるだろうなという予想はついたので、驚きは少なかったのが正直なところです。
また、ニュースピーク、二重思考、イースタシア、ビッグ・ブラザー、ゴールドスタイン。
聞きたことのない言葉や人物名がとても多く使われます。
小説を読んでいない人は、意味や人物を解釈するのにまず苦労したことと思います。
あらすじ:テーマ性が弱い
「1984」でウィンストンが暮らす社会の政治体制(イングソック)は、寡頭制(少数独裁)と集団生産によって成り立っています。
少数独裁を守るために、テレスクリーンで国民を監視。
そして国民の使う言語を新しく決めることで、政府を転覆するような思想を持たせない。また過去の文献を読めないようにしています。
ちなみに、新しく決めた言葉を「ニュースピーク」と呼びます。
政府の方針に反対したウィンストンが、拷問により改心するというのが簡単な小説のあらすじ。
ところで、舞台版「1984」は2050年になったシーンから作品が始ります。
(2050年に設定された理由は、小説「1984」でニュースピークが本格的に使用されるのが2050年と書かれているからでしょう)
舞台の設定では、党は革命によって崩壊し。新しい政治が始まったとされています。
誰が書いたか分からない小説「1984」の読書会のシーンが最初にあり、途中から小説「1984」で描かれた世界へと場面転換。
最後に再び2050年へと戻り、読書会のシーンで終わります。
しかし、読書会に参加する登場人物がある疑問をラストで投げかけます。
革命が起こった後の2050年。党は滅んだけれども、党の理念は果たされているのではないか?
革命は起こったが、2050年も1984年も本質的には何も変わってないのではないか?
劇中で子供から大人まで使用するスマートホンから個人情報を把握。
誰が書いたものかもわからない。
誰かが書き換えたのかもしれない情報を真偽を確かめず信じる。
そして、私たちが言葉を学ぶ手段は本やひとという個性にあふれたものから、インターネットやSNSという閉じられた媒体へと移りつつある。
そんな社会は、1984の世界と同じではないかと。
でもこう持ってくるには、もっと現代の状況を象徴的に描いたり、むしろ1984年の世界を現代に近づける演出の必要があったと思います。
テーマ性が弱く、もう少し深く考える機会があれば!と思いました。
ラストシーンの意味
最後の「ありがとう」は、
小説のウィンストンが言ったのか。それとも現代のウィンストンが言ったのか…
小説では、見事なまでにウィンストンが改心させられ、党のトップであるビッグ・ブラザーへの愛を抱きます。
小説「1984」の面白いところは、一見イングソック(党の方針)はナンセンスなように思えて、オブライエンの語る言葉から語られるイングソック理論にはうなずける部分もあるからです。
ジョージ・オーウェルの書いた「1984」はあくまでも小説です。オブライエンの語るイングソックの理念が〈正しい〉もしくは〈間違っている〉ことを伝えるためのものではありません。
だから、例えば小説「1984」を読んで、主人公ウィンストンの語る言動に影響される人もいれば、オブライエンの言動に影響される人もいておかしくないのです。
2050年で井上芳雄が演じた読書会に参加する男Aも、オブライエンの語る言葉に影響されたという解釈ができます。
1984年に生きる改心したウィンストンと、2050年に生きる男性Aが最後に重なるというスリルある演出?脚本?であれば小説「1984」の魅力をとらえていて面白いなと思いました。
ジュリアの描き方がもったいない
ウィンストンの暮らす社会は、性的行為が極度に制限され、妊娠・出産も党により計画されてしまう世界です。
その中で、奔放な美女ジュリア(舞台ではともさかりえ)から愛を告白されます。
小説では禁欲と逸脱の構造があるからこそ、ジュリアへの愛が深まるのですが、演劇ではウィンストンからジュリアへの愛が見えないのです。
ウィンストンのジュリアへの愛の深さが、ビッグ・ブラザーへの愛の深さへと繋がってゆくのですが、ジュリアをそこまで愛しているように見えない。
※ジュリアとの逢瀬は小説でかなりの分量で描かれています。
だから、ラストシーンでオブライエンに「ありがとう」というウィンストンの言葉も軽薄に感じてしまいます。
1984小説でなんでネズミがウィルソンの最も苦手なものなのか(なんででしょう?)とか。母とのトラウマとか。ジュリアとの愛とか。最も描かないといけないものを、舞台はことごとく無視してしまったよね。ほんとこれに尽きる。時間制限でもあったのかな?と思うくらいはしょっちゃった。
— ART@9日178912日1984 (@arisugawahana) 2018年5月7日