草彅剛、海宝直人出演!音楽劇「道」の感想・評判 こんなにスタオベしたくないと思った芝居は久しぶりだった、、、
草彅剛、蒔田彩珠、海宝直人、佐藤流司、妃海風など各界のスターたちが出演する音楽劇「道」。初日の感想をお伝えします。
※あまりオブラートに包まず、本音ベースで語ってます。
観劇を楽しみにしている方は、そのままの気持ちで劇場に足を運んで欲しいので、この先は自己責任でどうぞ。
【感想】音楽劇「道」は1時間40分だったのがせめてもの救いだった。#道 #海宝直人
— ART@1日花組『Delight Holiday』舞浜アンフィシアター (@arisugawahana) 2018年12月8日
音楽劇「道」あれで良い舞台と言っている人はどのくらい年間で舞台見に行っているのか知りたい。#草彅剛 #海宝直人 #妃海風
— ART@1日花組『Delight Holiday』舞浜アンフィシアター (@arisugawahana) 2018年12月8日
目次
「1時間40分だったのがせめてもの救いだった。」
今回はミュージカルとは別物だったけど、ストプレとしても良い舞台とは思えない。
「そもそもあの役、海宝さんである必要性がないよね。」
今回はそういう舞台でもなかった。
佐藤流司が登場して高まった舞台への期待感、、、その後ほとんど出ない
「オンステージシート、逆に座りたくないわ」
音楽劇「道」
初日ステージシート。
案内誘導役がシミュレーションしてなさすぎ、、、
直前に急遽荷物預けるハメに。席誘導直前に指示するなよ。。。
でも、端の席でハケる役者をガン見できたwww pic.twitter.com/53kuvzrwua— e*naka (@e_naka_) 2018年12月8日
「あの場面でザンパノは一体どんな表情をしていたのか…。」とか、一般席では知り得ないものが見られるのがああいう席の特権だと思っていたのだけど、そういうわけでも無い気がする。
あまりメリットないのに、遅れてきたら座れない。逆に座りたくないかも。
一人だけ姿勢が良い人いるな、と思ったら風ちゃんだった。
ところで、私は風ちゃんは帝劇やクリエでヒロインやっても良いレベルの女優だと思ってるんだけど、なかなか良い役が来ない。トップ期間が短いって不利だよね
映画との比較
だからこそ人間の美しさというか。深さというか。最後にはザンパノが打ちひしがれるという、業を背負った人間がついに人間の美しさに気づき、改心するという救いが訪れるのだけど。
舞台はそういうのあまり感じなかったな。実は俺のこと想ってくれていたんだぐらいの女性と男性の恋愛問題になってたよね。演出と脚本の問題かな。
そもそもさ、ザンパノとジェルソミーナの心の触れ合い的なものがうまく描かれていない。むしろスッパリ描かないなら、それはそれでラストシーンが際立つのかもしれない。でも本当に中途半端な描き方で。むしろ、ジェルソミーナはよくそれで愛されていると思ってるな?と…
あと、ジェルソミーナの「道化が怪我をした」発言が謎。そんな軽いレベルじゃないぞ?
ルヴォー演出は観客との対話が少なすぎる件について、ジョン・ケアードとの比較
ジョン・ケアードの演出と比較してみたいと思う。例えば「ダディ・ロング・レッグズ」の演出では、書斎を緑色に写すことで森を表現したり、「ジェーン・エア」で木の横にベッドを置いて室内を演出する、とか、クラシックで単純なんだけど、観客の想像力に委ねてくれる演出は嬉しいんだよね。要は、観客の想像力を信じてくれているから。そこに演出家と観客との対話があるの。
でも、最近はプロジェクションマッピングでの舞台美術も多いけど、これって目の前にあるものをそのまま舞台美術として捉えろってメッセージで、観客の想像力を信じてくれていない。
今回の「道」も我々の想像力に委ねてくれるようなワクワクする演出は全くなくて、布を使った演出も市民プールの第一レーン泳いでるなくらいにしか思わなかった。ありきたりだよね。
別に私はジェンケアード信者じゃないけど、そもそも演出って観客との対話じゃないの?って。対話がないからなんも伝わって来ないんだと思う。
ザンパノが最後に孤独と後悔に嗚咽するという「事象そのもの」に感動するのは良いけど、それは原作戯曲の良さであって、それによって今回の舞台作品全体が良いものだったと勘違いするのはどうなの?
舞台は演出、役者、美術、舞台効果など様々な要素から成り立ってるから、短絡的にではなく総合的に批評されるべきだと思う。
どんなに素晴らしい戯曲でも、作り方を間違えば舞台は駄作になる。今回はそれ。
役者が努力したというのが見えてしまうのは演出家としてどうなの?
あと、役者の良さを引き出すのも演出家の仕事じゃないですか。この人にこんな一面があったなんて!みたいな。
みんな草なぎ剛の肉体が良かったというけど、そこは本人の努力であって、演出家が引き出したものじゃないわけ。
草なぎ剛の努力は事実として認めるし否定はしないけど、私は彼を見ていて痛々しかった。自分のキャラにないものをやらされているっていう。
例えばもともと身体が大きいとか、ザンパノにふさわしい素質を持っている役者というのはいっぱいいると思うの。草なぎ剛という細身の人が頑張ったというのが見えてしまうのは演出としてダメだと思う。努力した役者は凄いけど、それは舞台の第一義のように褒められるとこじゃないでしょ?っていうね。
そもそも、ザンパノってムキムキじゃなくてもできる役だと思うんだよね。むしろムチっとしてても良いくらいだわ。
大竹しのぶ的女優像でジェルソミーナを描ければ良かったと思う。
素朴さのみが全面に出ていたけど、それで良いのか?というね。
一般的な・普通なことしての素朴さが全編に演出されていた。そうじゃなくて、一見、見た目は普通なんだけど、我々とは全然違うんだという存在感がジェルソミーナには求められていたと思う。
そういう意味で、大竹しのぶの若かりし頃なんかふさわしいよね。絶世の美女じゃないんだけど、「この人は我々とは違うんだ」というあり方が求められていたと思う。常人には追いつけない人なんだなという感覚なんだよね。
例えば、"エディット・ピアフが恋人に抱く感情"、「にんじん」での"親に愛されない感情"など普遍的な「悲しみ」には共感できる。でも、ピアフそのものにはすごすぎて観客が共感できない。映画「道」のジェルソミーナも似た役だと思う。
だから、ピエロとの会話を多くして、目の前の自分しか見えてないものと会話する不思議な女の子的要素を強く押し出しても良かったと思う。
大竹しのぶのような圧倒的存在感、演技力がなくても、ジェルソミーナの特別感、異質感は演出できると思うんだよね。
例えば、ピエロと話している時に「お前誰と話しているんだ?」って言われるシーンがあったじゃない?
そこで逆にジェルソミーナから「あなたこそ何言ってんの?」って感じを出して欲しいの。「あなたこそなぜこのピエロが見えないの?」くらいの感じを出して欲しい。
ジェルソミーナのことが理解できないのは、我々が常人だからなんだって感じが欲しいの。分かる???エディット・ピアフも私たちが常人すぎて理解できない。そういう感じが欲しいの。
妃海風の歌声と、終演後の和希そらが唯一の救い
最後まで読んで頂きありがとうございました。
草彅さんのファンに理解して頂きたいのは、私たちは草彅さんの頑張りやファンの称賛を否定しているわけではない、ということです。
彼が苦労したことは知っていますし、応援している方がスタオベする気持ちはよくわかりますし、当然だと思います。
ただ、草彅さんのファンではない一観客の率直な感想を綴りました。