クラーナハ展:会期と時間
10月15日(土)ー 1月15日(日)※月曜休み
ちょうど3ヶ月です。今が上野公園の紅葉も綺麗でおすすめの時期でしょうか。
9時30分ー17時30分(金曜日は20時まで)
金曜日の仕事終わりとか空いていておすすめです。
クラーナハ展:会場
国立西洋美術館
JR上野駅の公園口から降りてすぐです。
クラーナハ展:チケット
一般:1,600円
マネとかルネサンス期の美術がたっぷりある常設展も見られます。
詳しくは:クラーナハ展―500年後の誘惑
クラーナハを2行でまとめると?
1472年ー1553年、ルネサンス期に活躍したドイツの画家です。
初期は貴族の肖像画、後記は「サロメ」や「ヴィーナス」など女性の美しさを描きました。
※あと付け足すとしたら「工房で絵画を大量生産していた」という点です。
ルネサンスの有名な画家
「ルネサンス」ってよく聞きますがどういうことか簡単に説明します。
意味は「復興」です。
何を復興したか
ギリシャ時代の美術です。
ミロのヴィーナスなど、豊かな感性で作られた像や装飾を復活しようとした流れが「ルネサンス」です。
※キリスト教がつくる絵とか像って、布教のためなので、美しさは必要なかったのです。
有名な画家
ラファエロ
ボッティチェリ
クラーナハの描く女性像にもルネサンスの影響が見てとれます。
それでは、クラーナハ展に行くべきたったひとつの大きな理由をお伝えします。
クラーナハほど女性の艶めかしさを描いた画家はいない
マン・レイの場合
20世紀に活躍した写真家マン・レイ。
これはクラーナハの絵にインスパイアされて撮影した撮影した写真。男女の肉体に光を多くあてて、肌の質感が流れるようになめらかです。
ピカソの場合
スペインのキュビズム画家ピカソがクラーナハの絵画をモチーフに描いた作品。
マルセル・デュシャンの場合
20世紀に活躍したフランスの美術家マルセル・デュシャンが同じくクラーナハの絵画をモチーフに描いた作品。
20世紀を代表する画家がどれも同じような構図の絵をモチーフに作品をつくりあげています。
彼らにとってクラーナハとは「裸体の女性」を描いた画家なのです。
ではクラーナハの女性像を、同じルネサンスの女性像と比べてみましょう
ボッティチェリの場合
- 大きくクラーナハの絵画と異なるのが、まず背景がある。
つまり、神話という物語の一場面における女神が描かれているところ。
- そして、「くびれ」がない、もしくは少ない点です。
ジョルジョーネの場合
おなじく、物語の一場面としての女神象であり、「くびれ」が存在しません。
クラーナハの場合
一方で、クラーナハの女神の背景は黒く塗られています。つまり物語の一部を描いたものではなく、
「『女神』という名の女性」を隈なく描いた絵画です。
さらに、くびれがあることで、女性の陰部と胸がやけに強調されています。
さらにいえば、それを透明なヴェールで隠そうとしている。
あきらかに、女性の誘惑を描いたものです。
マネの裸体像が批判された理由はブレスレット
これは19世紀のフランスで活躍した画家マネの「オランピア」と言います。
もはや今まで描かれてきた女神像ではまったくない、寝そべる女性の裸体です。
これが批評家から大バッシングを受けました。
ルネッサンスの女神像が称賛され、マネの描いた女性が批判される。
この差はなにか、
裸に装飾品
答えは二つ。
まずは近くにいる黒猫です。女性の裸体はあくまでも美の象徴として描くのがルールであり、黒猫が俗悪感を増しています。
そしてもう一つ、それがブレスレットと首輪です。
裸に装飾品をつける行為は女性を描くルール上暗黙の禁止でした。
クラーナハの女神はマネの「オランピア」と同じくネックレスを裸のままつけています。それを16世紀の時点で行っている。クラーナハは、女性の艶めかしさへの嗅覚がずばぬけていたといっていいでしょう。
その女性を見つめるクラーナハの嗅覚に、ピカソやマン・レイなど一流のアーティストが感銘を受けたのではないでしょうか。
隠そうとすることで何かあると思わせる。それが男を女性のジレンマに陥らせる。
そして、この透明のヴェールはあたかも「この先に何かがある」と異性に思わせるための仕掛けのように思えます。
それに比べると、ジョルジョーネやボッティチェリのヴィーナスは「女性の下半身は隠さないといけない」という絵画上のルールを超えていません。
(ジョルジョーネの描くヴィーナス)
肖像画家の経験がクラーナハを女性に目覚めさせた
女性の未知を冷静に描いたクラーナハ
クラーナハは、女性の裸体を描くばかりでなく、ファムファタールと呼ばれるサロメやユディトを数多く描きました。
「よく切れたでしょ...?」とでも言わんばかりに笑みを浮かべたサロメを見てみてください。
これこそ、男性が想像する「女性の未知」です。
しかし、背景が黒く塗られているように、物語の一部として描いたものではありません。
男性から見た「女性の狂気的な面」を、ヒヤリと冷たく感じるほど繊細なタッチで描いています。
こういう男性から見た「女性の未知」。クラーナハ展のキャプションの言葉をかりれば「女のちから」をあくまでも冷静に見つめて正確に描く。
つまり、クラーナハ展に行くべき大きなひとつの理由とは
女性の未知を冷静に味わえる(でも男なら冷静にはなれない)
つまり、男性が女性を見たり、触れたりしたときにふつふつと湧き起こる「興味」と「欲望」のダイナミズム。
このダイナミズムを医者が冷静に肉体を解剖するように、筆と絵の具で解き明かすクラーナハ。
この美術展の最大の行くべき理由は「女性の未知を冷静に見られる(でも、男なら確実に欲望が生まれてくる)」、この他にはありえないと思っています。
でも、こういう絵画って女性はどう思うんですかね...
肖像画家としてのクラーナハはつまらない
そして、このクラーナハの冷たい視線がうまれたきっかけが、
画家として肖像画や宗教画を大量生産していた経緯にあると考えています。
クラーナハは工房で肖像画や宗教画などを大量に生産しました。
その後、女性の裸体を描くことになります。
が、しかし肖像画を観ると、あまり上手ではありません。
そもそも、肖像画とは個人的に消費される絵画です。
また、この時代のドイツの宗教画は、教会に飾られるのではなく、富裕層が個人宅で飾るものが中心です。
どちらも、わざわざ自分の画力を発揮する必要はありません。
このように、描くことにたいする冷静な目線を手に入れたのちに、
男性にとって未知である「女性のちから」を隈なく描いてみたいという欲求が、
このような形としてクラーナハの中に出現したのではないかと思うのです。
あえて未知を描ききろうとするために、エロティックな女性を絵具と筆で出現させる。
同時期に描いていた女性が、「不釣り合いのカップル」シリーズです。
男にしてみれば、不細工で下品そうなおじさんを好きになるかわいい女性なんて許せませんよね。
しかし、その男性にはきっと理解できない「女性の未知」を、色の付いた一枚のキャンパスに描ききる。
未知はいったい何なのか、クラーナハにとっては「描くこととは知ること」そのものだったのではないでしょうか。